2009/10/10

三四郎


☚昭和二十三年十月二十五日 発行
平成十九年十一月二十日 百三十七刷
夏目漱石


三四郎が高校を卒業し、東京へ上京して来るところから始まる。
三四郎が感じる東京という世界の目まぐるしいスピード、東京の人間、美禰子、また、自分の周りにいる人間との距離感が、わたし自身と近い感触を持った。

三四郎に届く母からの手紙、田舎の様子はいつも変わらないという印象を持つ。
それが古くさくも感じられ、それが大変ありがたくて、温かきもののでもあるというもどかしさ。
漱石は東京の人間なのに何故こんなに理解しているのだろう??

美禰子は理解し難き最上の女性として三四郎の視点から描かれている。
美禰子は賢い現実的な女性の最たるものだとわたしは感じた。
そして、三四郎は自分の距離感をもって美禰子を愛する。
美禰子はその三四郎のスタンスでは間に合わないという様な、そんなに気長な事ではこの先が思いやられる、という感じだったのではないかな。
その想いは野々宮さんに対してもそうだったのだろう。
美禰子は超現実派だけども、ロマンスも理解している人間。
だから出会ってしまった以上、三四郎がひっかかるから、三四郎と時間をもった。
でも、三四郎は美禰子の求めるスピードに追いつかなかった。

賢い女性なら、美禰子になった方がいいのだろう。
あいにくわたしは美禰子じゃない。

美禰子は三四郎と出会った時の着物で描かれる事をした。

三四郎との出会い・時間の刻印。
美禰子は現実的だから。賢い女だから。
三四郎はその辺の女の気持ちをまだ理解しきれていなかったから、
美禰子が”分からな”くて”苦痛”に成り得た。

三四郎はずっと自分の時間軸の中に居る。

美禰子は選んだ様に思われるかもしれませんが、
実際、美禰子に寄り添う気持ちや覚悟があったのは婚約者だけだったのでしょう。
きっと、好きだの、愛してるだの、たくさん溢れている。
でも、時間が合う、タイミングが合うみないなものは、それと離れたところにあって、
もっと現実的に確かなものだ。
ちなみに、好きという気持ち、愛、結婚ということを軽んじているのではありません。
それらが無い世界なんて、生きていないも同然です。

迷羊(ストレイシープ)から、現実的に美禰子は一歩遠ざかった。
三四郎はまだ、迷羊(ストレイシープ)の中に居る。

そんな気がする。

December 30 2008 クオリア日記”スケルツォの部分の飛躍”
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